伝説の時代


 時あたかも戦国時代、織田信長は天下統一の途上、一向一揆鎮圧に手を焼いた挙句、浄土真宗の本拠、大阪石山本願寺(後の大阪城)攻略を決心しました。世に言う石山合戦(1570〜1580年)です。しかし本願寺は北陸・尾張・三河・近江の門徒の固い信仰の力に結ばれ頑強に抵抗しました。
崇覚寺の開基、水谷左衛門太夫可高は紀州雑賀の人であったと伝えられています。また一説には香川丸亀城ゆかりの人であったとも言われています。
 水谷左衛門太夫可高はこの時、本願寺教如上人(本願寺第十二世法主)の弟子として安養坊の名で雑賀衆を率い参戦し、4度の出陣の後、討ち死にしたと伝えられております。この安養坊を崇覚寺の開基としております。
 その後、石山本願寺は降伏しますが、信長亡き後、豊臣を経て徳川の天下へと移っていく中で、本願寺は秀吉、家康それぞれの庇護を受け西本願寺、東本願寺と東西分立の時代へ移っていきます。そんな激動の時代の中、安養坊の子、右衛門重直も出家し教如上人の弟子となり桑名郡長島町中川村に東本願寺の末寺として崇覚寺を開きました。これが崇覚寺の山号「長嶋山」の由来となっております。当時、教如上人より拝領した袈裟と数珠が現在も当院に伝わっています。これが崇覚寺の始まりです。

なお、崇覚寺という漢字の読み方ですが、一般的には「すうかくじ」と読むのでしょうが、何故か代々「そうがくじ」と読み慣わされてきました。はっきりとした理由は不明ですが、戦国時代、崇覚寺が開かれた中川村に天台宗の「宗岳寺」という古刹があったらしく、何らかの関係があったのかもしれません。

長島から名古屋へ


 江戸時代に入ると、当時は那古野と呼ばれていた名古屋の地は尾張徳川の都市計画によって大々的に開発されることになり、近隣都市からの移住者により空前の発展を遂げていきます。世にいう「清州越し」です。崇覚寺も一族が尾張藩家老犬山成瀬隼人の用人であったことから寛永二年(1625年)長島より現在の西区堀詰町に移転します。 
その後、崇覚寺四世永伝、五世宗故は尾張名古屋城下に名古屋御坊(東本願寺別院)を建立すべく城下五ヶ寺とともにその中心的な役割を担い、元禄三年(1690年)ついに尾張藩の許しを経て現在の東別院の礎を築くことになりました。 

東橘町移転

 元禄一三年(1700年)、尾張城下町の西半分が焼けてしまう程の大火が発生します。当時西区堀詰町にあった崇覚寺も罹災したようで、これを機に、崇覚寺も西区堀詰町から名古屋御坊(東別院)に隣接する現在の地(橘町)に正式に寺基を移したと考えられます。その後、橘町は庶民の町として栄え、崇覚寺の南隣には中村座、北隣には市川座という芝居小屋が作られ、大変賑やかだっだようです。
江戸後期から幕末にかけて本堂の建て替えが行われ、これが現在の本堂となっております。
七間四面の本堂は総欅(天井・内陣は檜)で東本願寺御影堂を手がけた宮大工、伊藤平左衛門の手によるものです。本堂の彫刻も同じく東本願寺御影堂を手がけた名人早瀬長兵衛の手によるもので、内陣壁画の金泥蓮華図は幕末の代表的な仏画師である鬼頭道恭の作です。
本堂は国の「登録有形文化財」となっており、境内全体は名古屋市の「認定地域建造物資産」となっております。
庫裡と東門は江戸中期〜後期の建立で、西門及び玄関は年代は不詳ですが武家屋敷からの移築と伝わっております。なお、手水屋(現在は水は通っておりません)は明治時代に町内同行の皆さんからの御寄進と記されています。
古図には鐘楼も描かれておりますが、先の戦争で供出の憂き目に遭い現存しておりません。それ以外の建造物は経年相当の痛みや歪みはありますが概ね江戸時代の面影を保ったまま現在に至っています。

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大正二年、崇覚寺にて親鸞聖人六百五十回忌が勤められた時の風景を
高橋清泉画伯が描いたもの。

東別院の賑わい

東別院と崇覚寺

大正時代のお彼岸の様子。
この写真は東別院の西側、崇覚寺との間の道を北から写したもので、向かって右上が崇覚寺本堂大屋根で左手には東別院のお堀と「穴門」(塀をくり抜いた庶民の日常の出入り口)に架かる小橋が写っています。この地域にたくさん植えられていたという松の木も映っています。
東別院は報恩講やお彼岸には写真のような大変な賑わいだったそうです。現在ではマルシェなどが盛んに行われ往年の賑わいを取り戻しています。

現在の同じ場所

東別院のお堀は埋められ歩道になり、穴門や松の木は無くなり崇覚寺の大屋根だけが当時を忍ばせます。